主客の配置換え  主体  実体  マルクス目線
対立しているふたつの部分   ・対立しているふたつの部分の一方は <部分という表現に注目しましょう>  
 ──みずからの個別的なありかたのうちにみずから内在化することが普遍的なありかたに対してひとしくないことであり〔行為する良心〕 ──みずからの抽象的な普遍性が「自己」〔という個別性〕に対してふくんでいる不等性である  
 ふたつの部分の断念と告白  ・前者はそれだけで存在するじぶんのありかたを絶ち、みずから外化し、譲渡して、〔自分の限界を〕告白する  ・後者が断念するのはみずからの抽象的な普遍性がしめす冷酷さであって──かくて自分の生命を書いた自己と、その不動の普遍性を絶つことになる
 それぞれの部分の補完する契機 ・したがって その結果  
 ──前者がみすからを補完する契機は本質たる普遍的なありかたであり自己である普遍性によって  ──後者はまた自己である普遍性によってじぶんを補完するにいたるのである  
 真の頂点 ・行為することのこのような運動をつうじて精神は──精神が精神となるのは、そこに存在する(da ist)ことによって、また精神の現存在を思想へ高め、かくてまた絶対的な対立へと高めて、この対立から、ほかでもない対立をつうじ、また対立そのもののなかで〔じぶん自身に〕立ちかえることによってはじめてなりたつ消息である──、知の純粋な普遍性として──この知は自己意識でもある──、したがってまた知の単純な統一である自己意識として登場してきているのである。  ・行為主体としての自己を類的諸力総体の部分としてとらえることが、宗教における内容とおなじものだと実践的に把握すること
・総体の部分としての個が、人類の総体としての福利を目指して行動しようとするとき、個の認識活動は頂点をむかえる。
 宗教の超克 ・ こうして、宗教にあって内容だったもの、すなわちある他なるものを表象する形式であったものが、ここ〔良心の段階〕では自己に固有のふるまうこと(Tun)とおなじものとなっている。そのばあい概念が結合するはたらきによって、内容が自己に固有のふるまうことともなっているのだ。
・ここで概念とは、私たちとしても見ておいたところであるように、知であって、しかもその知とは自己が自身のうちでなすことをすべての実在的なありかたとあらゆる現存在として知るものであるからである。
 ・難解ですね。例えば、宗教が礼拝という形式的行為によって神を表象するばあい、概念(類的諸力)としてそれをとらえるなら、神の産出形式と個体の礼拝行為はおなじものとなっているわけです。
 概念  ・つまり概念とは、<概念を「思惟の形式」「一般的表象」としてとらえるのではなく「対自的に存在する実体的な力(類的諸力)」としてとらえましょう><実体とは必然性という限られた形式にある理念である> ・ 概念とは、個々の人類が日々産出維持している実体的な力のことである。
・行為する主体を実体として理解し、実体は行為する主体が知識として知るもなのです。
 ──この主体についてそれを実体として知るものであり、  実体にかんしては、それを主体がふるまうことにかかわるこの知として知るものだからなのである。
 この場面で付けくわえたもの ・私たちの側がここで付けくわえたものといえば、
──それはひとつにはひとえに、個々の契機のさまざまをとりあつめることであって、その契機のそれぞれがおのおのの原理において、全精神の生命を表示しているわけである。
<人類の思考形態は、全体の部分として働くという意識的分業に基礎を置いており、個体の活動は瞬時人類全体の総諸力を表している>
──付加されるのはもうひとつには、概念を概念の形式のなかで固定するという側面であり、当の概念の内容はめいめいの契機にあってすでにそれ自身あきらかになっていたと言ってもよいし、たほう概念も意識の形態という形式のうちにすでにそのものとしては生じていたとも言ってよいだろう。
<類的諸力は類的諸力の形式のなかで位置が固定されており、>
 ・個々の契機とは類的諸力のことなのですが──行為主体の側がまずそれをとりあつめること。
・つぎにそれぞれの類的諸力は、それぞれの原理によって全人類の生命力を表示しているのです。




・概念は先行している