シリーズ  訳者 出版社・年 最難関箇所(最終章の一部分)の翻訳比較  筆者(道元)の訳本の全体を読んだ経験から
 ヘーゲル全集 金子武蔵 岩波書店

1979(下巻)
以上のような次第であるから、宗教においては内容であったもの、言いかえると、或る他者を表象することという形式をとっていたものとおなじものが此処の全的に知ることにおいては自己にとって自分自身の為すことである。このさい内容が〔同時に〕自己にとって自分自身の為すことでもあるというように、内容と為すこととの両者を結合するものこそは概念である。なぜなら、この「概念」というのは、「我々」の見るように、自己が自分のうちで為すことについて知ることをもって、あらゆる本質態とあらゆる「そこ」の存在とを知ることであるとし、また「この主体について知ることをもって、実体について知ることであるとし、さらに実体について知ることをもって「この」主体の為すことについて知ることであるとするものだからである。<下p1149~1150><文字強調点sesameは太字に変換>
熊野訳が出る以前は最も評価の高かった翻訳です。
しかし、 左の翻訳をみればわかりますが、ヘーゲルの弁証法を西田哲学風に理解しようとしています。絶対矛盾の自己同一とは臨済禅の得法の境地を西洋哲学の用語を借りて論理展開して見せたということでしょうが、そのような境地ではヘーゲルには手が届かないのです。ヘーゲルの弁証法は西田哲学のような幼稚な論理展開で理解できるものではありません。
最も評価の高かった金子訳ですらヘーゲルが絶対精神によって宗教を克服する論理展開を日本語に置き換えることができていないとなると、熊野訳が出るまでは「精神現象学」はほとんど日本語では理解されることはなかったと理解するほうがよいのかもしれません。
 平凡社ライブラリー 樫山欽四郎 平凡社
1997(文庫版下巻)
かくて宗教において内容であったもの、つまり、他者を表象する形式であったもの、これとおなじものが、ここでは自己自身の行為である。概念が両方を結びつけると、内容自己自身の行為となる。──なぜならば、われわれのみるところでは、この概念は、自己における自己の行為が全実在であり、全実在であると、知ることであり、この主体実体であると知ることであり、実体が自己の行為の知であると知ることだからである。<下p393~394><文字強調点sesameは太字に変換>  私事で恐縮ですが、大学を卒業し、生活のためにやむなく就職し、それから働きながら毎夜寝床で10年ぐらい「世界の大思想」版のこの訳本を読みました。繰り返し読んだので本は手垢にまみれましたが、頭に残り身についたものは、理解不能な文字を読もうとする執念と忍耐力以外はなかったと思います。
 ー 牧野紀之 未知谷
2001
(合本版)
かくして宗教では内容であったもの、他者の表象という形を採ったものが、ここ〔良心〕では自己自身の行為となっている。内容が自己自身の行為となっている。内容が自己自身の行為であるというこの事は〔理性の〕概念から来ることである。というのは、この概念は、我々が見たように、自己の自己内での行為が全ての本質でありすべての定存在だと知るものであり、この主体は実体であり、この実体は更に主体の行為についての知である、と知るものだからである。<p997>  訳者は学部は東大を大学院は都立大を卒業された在野のヘーゲル学者です。
アカデミズムに背を向け、自らの生活の中でヘーゲルの思想を理解し、労働者・市民を啓発していこうとした真摯な姿勢には頭が下がるものがあります。
また、わからない箇所は、わからないとして保留する姿勢も、在野の研究者らしく好感がもてます。
しかし、残念ながら、この翻訳本ではヘーゲルの論理展開を把握することが非常に困難です。
 4  ー  長谷川宏  作品社
1998
 宗教においては内容的ないし形式的に他なるものとしてイメージされていたものが、ここでは自己みずからの行為となっている。概念の力が内容を自己みずからの行為と結びつけている。概念とは、すでに見たように、自己内部の行為がありとあらゆる存在を包摂するのを知ることであり、この主体が実体であり、実体が行為の知であることを知ることなのだから。<p540~541>  東大大学院を出て学習塾で生徒を教えながら、研鑽を積まれた在野のヘーゲル学者です。その平易な訳文は一世を風靡しプチヘーゲルブームを起こしました。
しかし、「精神現象学」の訳についてはいただけません。
平易であることは常識で理解できることと同義ではありません。この本の読者用の栞で「この程度の思想」とヘーゲルの思想を述べていましたが、長谷川宏程度にこの程度と言われたのではヘーゲルも浮かばれません。
 ちくま学芸文庫 熊野純彦 筑摩書房
2018(下巻)
こうして、宗教にあって内容であったもの、すなはちある他なるものを表象する形式であったものが、ここ(良心の段階)では自己に固有のふるまうこと(Tun)とおなじものとなっている。そのばあい概念が結合するはたらきによって、内容自己に固有のふるまうことともなっているのだ。<下p570><文字強調点sesameは太字に変換> 私事となりますが、上巻は2020年8月から2021年1月にかけて、下巻は2021年1月から2022年6月にかけて精読しました。
悪戦苦闘ではありましたがヘーゲルの論理展開を追いかけることができました。訳者の高い見識はもとより、参考にされたフランス語訳の水準の高さが推測されます。先行諸訳を根本から見直す抜群の参究です。
 ヘーゲル全集 山口誠一 知泉書館 <2巻未発行>
1 テキスト選考

現在入手できる日本語化されたテキストは以下の6巻です。
迷わずに、熊野訳を選びましょう。